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【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / 積水化学工業 大久保尚武相談役 《下》
1997年6月に専務、99年1月に副社長として新規事業および国際部を担当した大久保氏は、グローバル時代の成長戦略として自動車用合わせガラス中間膜、フォーム(発泡)製品などの海外展開を指揮し、積水化学のグローバル展開を牽引した。そして99年6月、西澤進社長の後任として積水化学工業の第8代社長に就任した。
進むべき道は見えていた。社長就任当初から「際立つ高収益企業」あるいは後述する「環境経営」といった指針を打ち出し、改革の旗を振った。しかし社長就任の前年である98年、積水化学は営業赤字に転落していた。「際立つとか環境とか、盛んにスローガンを掲げたが、とにかく赤字なので第一課題は赤字脱却だった」。バブル崩壊後、徐々に進んだ日本経済の低迷がいよいよ本格化していた。
住宅事業の再建
「社長になって最初にまずいと思ったのは、住宅の月次計画が毎月大幅な未達に終わることだった」。住宅事業は95年頃まで全社営業利益の8割前後を稼ぎ出す大黒柱だった。「95年の阪神淡路震災を契機に当社の住宅は地震に強いと評判になり、95年、96年と受注が伸びた。ところが98年になると、新規契約が6割も減少して赤字になった」。日本経済全体がバブルの清算で大きくシュリンクしていたのだ。「住宅事業の担当者は新しい状況になかなかなじめず、状況を理解できず、こんなはずはないという思いで高めの目標を立てては未達になる。それが1年半くらい続いた」。
成功体験を持つ住宅事業は「一定の販売棟数があれば必ず利益が出るという、高度成長期のやり方だった。工場は営業のことを知らず、営業は工場を知らないという状況で全国に500もの展示場を持ち、とにかく売るんだと?」。
大久保氏は、ついに住宅事業の再建に踏み切った。「まず達成可能な計画を作る風土づくりが最初だった」。異例ではあったが一定の期間、大久保社長自ら支店長会議や現場の会議にも出席し、陣頭で指揮を執った。「次にやったのが製造と販売の合体だった。工場と営業が連動することで、利益を確保できる生産計画を作った。当時の本部長がよくやり切った。2年後には、毎月の計画はほぼ達成するようになった」。
環境経営
「環境と経営の問題は、ある日突然ではなく、ずっと長い間考えていた」。大久保氏は、日本でいち早く"環境経営"を打ち出した経営者だ。契機となったのは古い話だが「72年にローマクラブが発表した『成長の限界』だった」という。「プラスチックを年間40万トンも使用している会社として、環境対応はどうしても取り組まなければならない問題だった」。
社長に就任するやいなや「環境経営に取り組むことについて、社内に向け思いを込めて話した。エコノミーとエコロジーは両立させられるはずだと」。まだ環境経営という言葉もなかった時期だ。一方で「環境経営をやろうというのは、相当の決断だった。周囲は、そんなことを赤字の会社がやるのか、と思ったことだろう」。
人類価値にコミットしながら企業として高い収益を上げ成長していく。その難題を解き、環境経営を実践できたのは「"環境貢献製品"という考え方を打ち出せたことにある」と大久保氏は語る。「ゼロエミッションや省エネルギーなど社内の取り組みだけでなく、製造販売する製品そのものが環境に貢献するという考え方だった」。発端はソーラーパネルを搭載した住宅だった。「当時の住宅カンパニーのプレジデントがエコノミーとエコロジーの両立を打ち出し、ユニット住宅にエネルギー自律型の光熱費ゼロ住宅コンセプトを持ち込んだ。嬉しかった。これで道筋ができたと感じた」。これをきっかけに積水化学は、第三者が認定する環境貢献製品を全社の事業の中心に据えることを決め、その比率を年々拡大していくことになる。
2002年には、経団連から自然保護協議会の会長就任を打診された。「環境経営を標榜するのだから、お受けすることにした」。その後10年間、同協議会の会長を務めた。
営業利益に一本化
経営目標を営業利益へ集中させたことも大久保氏の施策だ。「会社では現場の第一線が一番大事。一つひとつの現場が自分達の会社を良くする、と思わなければ良くならない」。そのために明るい前向きな雰囲気づくりに心を砕く一方で「社長になって2年目に、皆と相談して事業評価の方法を営業利益に一本化した。限界利益と固定費の取り合いの結果が営業利益になる。末端の社員まで分かりやすい。限界利益を上げるか固定費を下げることが仕事であり、それ以外は仕事じゃない、と発破をかけた」。
営業利益への一本化は別の効果も生んだ。「不良資産はどれだけ整理しても構わない、と社内で告げると、次から次に出てきた。例えば不良在庫。ある工場では、外部に借りた倉庫にバケツなどのプラスチック大型成形品の不良在庫が山ほど溜まっていた」。子会社の中でも歴史の長い会社を整理すると不良資産が出てきた。「それでも一切とがめなかったので、社長在任中に大半の不良資産を処理することができた。これが会社が良くなった一つの理由だった。本当に身軽になった。余計な在庫を作ってしまっても、すぐに対応する。そういう姿になったのは営業利益を基準にしたからだ」。
高い目標を示す
赤字脱却を果たした大久保社長は、ある時期から営業利益10%達成を目指すと言い続けた。理由があった。「02年にデュポンが合わせガラス用の中間膜事業を手放すかも知れないと噂になった」。自らグローバル化を指揮した中間膜事業。世界の市場でしのぎを削ってきたデュポン退場の噂に耳を疑った。「理由は利益が10%しか出ないからだと」。衝撃だった。「そういう世界がある。欧米では高収益というのは10%以上を常識としている。グローバル化するなら、われわれも必ずそこに追い付かなければならない」。闘志に火が付いた。「追い付く道があるはずだ」と社内に号令をかけた。
大久保氏は言う。「トップの仕事は、現場が日々の仕事の殻を破るように手助けをして、高い目標を示すこと。スポーツであれば、目標が学生の大会か、全日本か、オリンピックなのかで変わる。日々の練習の仕方がガラッと変わってくる」。自ら体得した本質を、トップとして現場に日々伝えた。
08年のリーマン・ショックもあり、社長在任中に営業利益10%には届かなかった。しかし大久保氏の表情は明るい。「引き継いでくれた方々は、僕よりはるかに儲けるのが上手い。今は社長以下、皆が(営業利益10%を達成)できる、と思っているはず」。"日本最大の樹脂加工メーカー"だった積水化学は、世界で存在感あるエクセレントカンパニーに向け、着実に歩を進めている。「会社の仕事も練習というかたちの仕事がほとんどだ。良い練習をすることに全力を傾けようぜ」。そう鼓舞した後輩たちを今、大久保氏は頼もしそうに見守っている。