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2015年11月27日 前へ 前へ次へ 次へ

【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / 三菱化学 三浦昭特別顧問 《下》

 

★原料立地へ―サウジ石化計画★

 鹿島コンビナートのエチレン設備が稼動した頃、水面下で新たな動きがあった。1971年8月、三菱商事がサウジアラビア政府に対し、石油化学プロジェクトの共同事業化調査(FS)を提案、85年に操業開始する日本とサウジ基礎産業公社(SABIC)との合弁石化プロジェクト(SHARQ)が胎動したのだ。

 三浦氏は、79年に設立された日本側の投資会社「SPDC」に出向し、「アル・ジュベールでプラントが稼働するまでの約5年間、同プロジェクトの企画、調整業務に携わった」。SHARQの石化計画は、1970年代のオイルショックを契機に国家プロジェクトと位置付けられ、SPDCには政府が45%出資したほか、三菱商事、三菱化成、三菱油化のほか化学企業、鉄鋼企業、自動車会社など約50社が参画した。「関係官庁はじめ、株主各社には本当によく協力していただいた」。

 中東地域ではこの時期、三井グループなどによるイラン計画も推進されていた。計画の進捗はイラン計画が先行していた。しかし、プラント完成直後にイラン革命が勃発する悲運から、日本企業が撤退する事態となった。こうした経緯から「サウジ計画についても半信半疑のところがあった」。

 しかし、エネルギー安全保障やサウジアラビアとの友好関係など、当時の政治経済情勢からSHARQ計画には大きな期待がかけられていた。こうしたなかで、「三菱商事の山田敬三郎さん(SPDC初代社長、三菱商事元副社長)、田子勉さん(SPDC第2代社長、三菱商事元常務)らの情熱があって成功した」。

★新規事業と鹿島2期計画★

 アル・ジュベールでSHARQの石化プラントが操業を開始した85年、日本の石油化学は不況のどん底にあり、ついに産業構造改善臨時措置法(産構法)のもと政府主導による不況カルテルの結成と共同設備廃棄、共同販売会社の設立が実施された。過当競争による大幅な設備過剰、オイルショック、円高などを背景に、自力での再建が困難という状況に立たされていた。

 創業以来の危機に直面した三菱油化は、石油化学以外の新事業を育成することで生き残りを図る方針を決めた。こうしたなかでサウジ計画から本社に復帰した三浦氏は、新規事業本部に配属された。「三菱油化薬品の製薬、三菱油化メディカルサイエンスの検査薬のほか、農薬、電子材料などの高付加価値事業を育成した」。

 その一方で、81年に社長に就任した吉田正樹氏は、鹿島における第2期エチレン計画の実現に意欲を持っていた。構造不況に喘いでいた石油化学が1980年代後半のバブル経済で一時的に息を吹き返すと、吉田社長は2期計画を実行に移した。「石油化学は産業構造改善の対象であり、国外でやるという機運が出ていた頃だった。それに反する鹿島2期計画は批判の対象となった。辛い時期だった」。

★最後と最初の社長★

 バブル崩壊後の不況が日本を覆う92年6月、鹿島では年産40万トンの第2期エチレン設備が稼働を開始した。各方面からの批判を押しのけ実現した鹿島2期は「吉田さんの執念。当時はみなそう言っていた」。吉田社長は鹿島2期の完成と前後して体調を崩した。「吉田さんはこのこの頃、順天堂大学の病院へ入退院を繰り返していた」。翌93年、吉田社長は想いを遂げたように逝去した。

 同年2月、三浦氏は吉田氏の後を受け、三菱油化の第5代にして最後の社長に就任した。三浦氏が直面したのは「とりわけ構造問題が深刻なポリオレフィン事業をいかに構造改善するかだった」。ポリオレフィン事業を立て直すには単独では難しい。93年になり、一つの決断を下した。ポリオレフィン事業統合に向け、三菱化成の古川昌彦社長との話し合いに入ったのだ。そしてこの話し合いが、最終的には両社合併の結論を引き出していく。

 三菱油化と三菱化成の合併は、化学業界では実現しそうで困難な話しとされ、永遠の話題とも言われていた。しかし、「三菱油化は、設立当初からたくさんの人材が三菱化成から来ている。そして、(当時の)鈴木精二社長と吉田さんとは交流があった。そうしたなかで、合併の話しもみんなにアクセプトされる雰囲気がだんだん出てきた」という。また、三菱銀行も「資金調達面から、グループのなかに化学企業が2つあるより、合併で1社になる方がリーゾナブルとの認識だった」。

 93年12月24日、年末年始の休日入りムードが高まるなかで、三菱油化の三浦社長と三菱化成の古川社長は記者会見に臨み、両社が94年10月に合併することで合意したことを電撃発表した。そして、合併会社である三菱化学の初代社長に三浦氏が、会長には古川氏が就任した。

★カンパニー制導入★

 三菱化学の社長として三浦氏が直面したのは「当座の業績回復もあったが、構造問題を抱えていた」。バブル崩壊から4年を経ても、日本経済は不況から立ち直っていなかった。コスト構造を見直し、収益を回復させる手立てが必要だった。「このため、カンパニー制を導入した。利益を上げるには、各カンパニーにセルフスタンドしなさいと」。

 事業別では高付加価値型事業、とくに医薬部門の拡大成長に注力した。そして合併を機に導入したカンパニー制度は、後の医薬部門の分社化と東京田辺製薬との合併につながるなど、三菱化学を新たな成長へと導いていった。

★化学の新たな使命★

 振り返れば、三浦氏の経歴は、石化産業が勃興して以来の化学産業の歴史そのものだ。石化事業では国産化、大型化、海外進出という節目の全てに関わった。そして情報電子材料、ライフサイエンスといった高付加価値事業の育成に取り組んだ。合併の当事者として、化学業界の再編も実施した。その三浦氏はこう語る。「今、本当に世の中は大きく変化している。企業としてもインダストリーとしても、化学は従来のカテゴリーからだんだん離れていくことになる。化学製品の提供から、化学のテクノロジーでいかに価値を生み出すか、という時代に入ってきた。新たな使命が、化学の新たな歴史となっていく」。

(毎週、御一方ずつ掲載予定)


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