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2015年11月26日 前へ 前へ次へ 次へ

【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / 三菱化学 三浦昭特別顧問 《上》

 

★鹿島1号機の停止★

 2014年5月、三菱化学・鹿島事業所の1号機エチレン設備は稼働停止し、1970年から続いたその歴史に幕を下ろした。鹿島セントラルホテルで開催された「お別れの会合」に出席した三浦昭特別顧問は、立ち上げ当時の苦労を想い起こしていた。「建設中は緊張の日々。とくに原料投入後の試運転の時期は、交代で夜勤の工場長の役割も務めた」。あれから45年。「時代の流れだね」と語る三浦氏の口調に感傷の響きはない。石油化学の発展に貢献した過去。しかし、時は流れ世界は変わった。そして化学産業には新たな、そして大きな使命が待っているからだ。

★池田亀三郎の誘い★

 「君、今度こういう会社(三菱油化)を創る。同じ三菱グループだし、こっちに移らないか」。三菱石油(現JXホールディングス)に入社して程ない三浦氏に声をかけたのは、三菱油化の初代社長、池田亀三郎氏だった。「池田さんは山形県酒田市の出身。私はその近くの庄内町の出身。就職が決まったとき、東京原宿のご自宅に挨拶にいった」という。故郷の大先輩の誘いは断れない。だが、入社したばかりの会社にも迷惑はかけられない。思いが交錯した。

 三菱グループは1956年、石油化学への事業進出にあたり三菱化成工業、三菱レイヨン、旭硝子、三菱商事、三菱金属鉱業(現三菱マテリアル)、三菱銀行(現三菱東京UFJ)などが出資し、三菱油化を設立する。旧三菱化成工業の初代社長も歴任した池田氏は、終戦を機に一線から退き、日本化学工業協会の副会長の職にあった。その池田氏が、新生三菱油化の社長として現場復帰することになった。

 池田氏は悩む三浦氏を「僕が話しをつけてやる」と説得した。三浦氏は、学生時代から石油化学に興味があり、「大学では石油化学の分野で著名であった徳久教授の研究室で修士論文の指導を受けた」。三菱石油では川崎製油所に配属され、「現場が肌にあう。プラントを建設してみたい」とも考えていた。運命が動いた。

 「入社してみると、発足したばかりの三菱油化の本社には30人しかいなかった」。しかし三浦氏はこの後、石化産業の急成長を目の当たりにすることになる。

★国産化―四日市計画★

 日本の石化産業は、1958年4月の三井石油化学工業・岩国および住友化学工業・新居浜、59年5月の三菱油化・四日市および日本石油化学(現JXエネルギー)・川崎の先発4社(第1期計画)のエチレン操業開始が本格化の号砲だった。四日市計画は、年産2万2000トンのエチレンと、誘導品のポリエチレン、スチレンモノマーを中核とコンビナートだった。

 「この時期、何をしていたかといえば導入技術の選定だった」。日本は、製造プロセスを海外からの導入技術に頼っていた。エチレンの技術は、条件が有利な米ストーン&ウェブスター(S&W)社を選択した。「米ケロッグ社やルーマス社もあったが、他の先発3社もS&W社だった」。

 導入技術が決まると、イギリスのシェルに石油化学プラントの運転実習に派遣された。先行する2社を追いかける突貫工事も大変だったが、設備完成後も苦労した。「エチレンとダウンストリーム(川下誘導品)が順調に一斉に立ち上がらないと困る。エチレンは高圧容器に保管する必要があり、建設費がかかるのでストレージを多くは持てない。貴重な経験になった」。

 試運転にあたっては、三菱化成からベテラン運転員が応援に駆け付ける一方で「新卒や別業種の経験者もオペレーターに採用し、危険物や高圧ガスの扱いなどを訓練した」。エチレンの第1期設備は、59年5月に念願の商業運転入りを果たした。その直後に伊勢湾台風が四日市を襲う不幸に見舞われるが、工場は短期間で再開することができた。

 その後、四日市では増設に次ぐ増設が実施された。高度経済成長が始まり、石化製品は作れば売れる売り手市場だった。「62年完成の第2期でエチレン年産6万トン。65年完成の第3期でエチレン年産?万トンを建設した。さらに68年には年産20万トンの第4期エチレンが完成した。すごいスピードだった」。

★30万トン時代―鹿島計画★

 10年にわたる四日市での拡大投資を経験した三浦氏を待っていたのは、鹿島コンビナート計画だった。三菱油化は、四日市の敷地がいずれ限界を迎えることを見越し、60年代前半から第2立地での建設構想に入っていた。最終的に候補地に浮上したのが鹿島だった。

 当時の岩上茨城県知事の農工両全の開発方針に基づき、インフラの構築から関与する鹿島計画は、三菱油化が第2の創業期と位置付ける大プロジェクトとなった。当初、エチレン年産10万トンとしていた計画を同20万トンに上方修正したが、さらに通産省(現経済産業省)の指導により同30万トンに拡大修正された。「エチレン30万トン時代」の幕開けだった。三浦氏は東京本社に設置された鹿島開発本部に異動し「コンビナート全体のレイアウトやインフラの整備を立案した」。

 石油精製拠点も大型港もない地区に18社が進出する鹿島計画は、石油精製会社(鹿島石油)の設立や、世界最深の水深を持つ掘り込み式の人工港の建設などをともなう一大プロジェクトとなった。一方で、共同火力発電所などの共同ユーティリティーセンターの設立や、コンビナート全体の最適配置と計画的なパイプライン網の整備のほか、安全対策、公害対策などを含め、それまで日本では例をみない効率的なコンビナートを追求した。

 効率化の鍵を握るのが、初期のレイアウト作りだった。「原料のタンクヤードから川下誘導品に至るパイプライン網や、参加企業全体のレイアウトを決めていった。パイプライン設置では、参加企業全体が一定の比率で用地を出し合い、共通の配管用地を確保した」。

 正式決定から7年後となる71年、鹿島コンビナートは前年からの試運転を経て本格操業を開始した。しかしこの年、石油化学産業はそれまで経験したことのない困難に直面した。高度経済成長が終焉したのだ。


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