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2015年11月13日 前へ 前へ次へ 次へ

【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / 三井化学 田中稔一相談役 《下》

 

▼2度目の合併

 田中氏は1992年、工業薬品事業部営業一部長に就いた。国内トップのフェノール事業を擁する花形部門だ。フェノール事業の将来について「需要の伸びが見込めない国内だけでは限界がある」と考えた田中氏は、シンガポールでのビスフェノールA(BPA)進出計画の策定に走り回った。そうしたなかで96年、三井東圧と三井石油化学が合併に向けて合意した。

 合併に向けてのカギは、両社が手掛けるフェノール事業だった。「合併すると、フェノールは国内シェアが50%を超える。公正取引委員会(公取)が認めないだろう」との見通しが強かった。「そこで、三井石化からは中西専務(当時)と企画担当者、三井東圧からは坪井専務と私の合計4人で公取に交渉に行った」。交渉相手は企業結合課の鵜瀞(うのとろ)惠子課長。「国内で戦う時代ではない、国際競争だと訴えた」。通産省(現経済産業省)のバックアップもあり、「日本の化学産業が世界で伍して戦う意義を読み取ってくれた」。この時、まだ「中西さんが自分の上司になるとは夢にも思っていなかった」。

▼幸田会長の指導力

 フェノール事業の温存を勝ち取り、97年10月に三井化学が誕生した。大牟田の石炭開発から発した三井グループの化学系主要企業が、ここに再び大統合したのである。合併のキーワードは幸田重教会長が掲げた『合併効果の早期実現』だった。

 「三井東圧では十分な合併効果が上げられなかった。組合の問題などの社会情勢もあり融合が遅れた。三井石化、三井東圧の首脳陣も同じ思いだった。だから、今度は出身がどこかは関係ない。新しい会社のために効果を早期に出そうと」。

 合併後、「真剣にエネルギーをかけて、皆で取り組んだ。お互いの文化や仕事の進め方のうち、ポーターやコトラーなどの経営理論を取り入れての中計策定などより効率的な方を選ぶ合理性があった。また、相手に対する忖度があり、この結果、合併効果は外に向かって誇れるような効果が上がったと思っている。大型合併の成功例の一つではないか」。

▼海外展開

 BPAでスタートとしたシンガポール計画は、その後フェノール進出を果たし、ここに三井化学としてのフェノールツリーが完成した。「シンガポールは、制度がクリーン(公平)で、国を挙げて石油化学産業をバックアップする体制だった。交渉もスピーディで石化産業に賭ける情熱があった」。イランでの石油化学進出計画で挫折した経験のある三井化学にとって、シンガポール・ジュロン島への大型投資は、同社の新たなグルーバル化の契機となった。

 中国の2つの大型投資計画もキーマンとして携わった。中国石油化工(SINOPEC)と組んだフェノール、BPA計画と、高純度テレフタル酸(PTA)計画だ。「三井化学は海外投資を決める条件として、需要家を持っていること、コア製品であること、投資リスクがコントロールの範囲内であること―の3点を基準としていた。そのなかでフェノール/BPAは中国に行こうと」。

 一方でPTAは「中国に土地も押さえていたが、なかなか認可が下りないなかで事業環境が大きく悪化した」。三井化学は中国PTA計画の中止に傾くもその対応策について悩んでいるところ、中国サイドから、「やらないなら土地を返還せよと言われ」計画中止となった。「今から考えると幸運だった」。

▼事業構造転換

 社長となり再建を託された田中氏にとって、短期の課題は「事業の黒字化に加え、落ち込んだ社内の雰囲気を活性化させることだった」。このため、初年度の09年度に社長で40%の減額を始めとして、役員以下の報酬減額、製造合理化などで合計300億円の緊急コスト削減対策をまとめる一方で、社内では「マーケティング強化」、「野武士たれ」と発破をかけ、モチベーションの向上を図った。

 中期の課題は、「市況変動に左右されやすい汎用石化事業から脱し、高付加価値で成長が見込める事業に経営資源をシフトすること」だった。緊急対策により、2010年度に業績のV字回復を果たすと、11年度から「事業ポートフォリオの変革と経営のグローバル化」を推進する3カ年の中計計画をスタートさせ「本格的に、新領域に経営資源をかけ始めた」。

 石化系では国内エチレンセンターのLLP(有限事業責任組合)設立など出光興産との連携を強化する一方、「海外ではPPコンパウンドで次々に投資した」。基礎化学では、3大赤字事業と呼ばれたフェノール系、ウレタン系、PTAの事業再構築を進め、PTAのインドネシアからの撤退、フェノールの内外でのダウンサイジング、ウレタンは鹿島工場の閉鎖などを決断した。

 高付加価値の領域として、ヘルスケア分野ではメガネレンズモノマーでアコモンの買収など世界トップの座を強化し、不織布事業ではタイ・中国等内外の新増設を実施した。そして13年には独ヘレウス社から歯科材料事業を600億で買収した。「事業構造転換は途上だが、全体の流れを変えていくんだという姿勢を、皆が理解したと思う」。

▼忘れられぬ経験

 14年3月、後任社長に淡輪敏専務を指名すると、会長に就かず相談役となった田中氏。社長時代を振り返り「辛かったのは、事故で社員を亡くしたこと」。12年4月22日に岩国大竹工場でレゾルシン設備が爆発火災事故を起こした。「亡くなった社員の両親に、人生で初めて土下座したが、それでも22歳の前途ある若者の命は戻らない」と唇を噛む。

 この頃、化学業界では大規模な爆発事故が連続して発生した。このため、石油化学工業協会を中心に、学識経験者も交えて徹底的に安全対策に取り組んだ。「大変な迷惑をかけたが、この対策は今後の教訓として活かしてもらえると思う」。

 「それと、もう一つ辛かったのは、鹿島工場の閉鎖だ」。ウレタン事業などの再構築のため実施したが、さまざまなステークホールダーから苦言を受けた。しかし「決断して良かったと思う」と振り返る。「その後扶桑化学さんが事業の一部を買いたいと名乗り出てくれた。コンビナート内で社員を採用したいと申し入れされる企業もでてきた。経営者として一番ダメなのは決断しないこと。自分のいる間は決めないというのが一番罪が重いと思う」。

 一方、「心残り」と語るのは、いわゆる石化の千葉連合が道半ばであることだ。「出光さんとLLPを設立した意図は、千葉地区の4社5プラントのエチレン設備を一緒にしようという思いから。そのため先ず2社でスタートした」。各社で世代交代が進むなか、大連合の実現を後進に託す。

(毎週、御一方ずつ掲載予定)


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