日付検索

2015年11月の記事を読む
2015年10月の記事を読む
2015年9月の記事を読む
2015年8月の記事を読む
2015年7月の記事を読む
2015年6月の記事を読む
2015年5月の記事を読む
2015年4月の記事を読む
2015年3月の記事を読む
2015年2月の記事を読む
2015年1月の記事を読む
2014年12月の記事を読む
2014年11月の記事を読む
2014年10月の記事を読む
2014年9月の記事を読む
2014年8月の記事を読む
2014年7月の記事を読む
2014年6月の記事を読む
2014年5月の記事を読む
2014年4月の記事を読む
2014年3月の記事を読む
2014年2月の記事を読む
2014年1月の記事を読む
2013年12月の記事を読む
2013年11月の記事を読む
2013年10月の記事を読む
2013年9月の記事を読む
2013年8月の記事を読む
2013年7月の記事を読む
2013年6月の記事を読む
2013年5月の記事を読む
2013年4月の記事を読む
2013年3月の記事を読む
2013年2月の記事を読む
2013年1月の記事を読む
2012年12月の記事を読む
2012年11月の記事を読む
2012年10月の記事を読む
2012年9月の記事を読む
2012年8月の記事を読む
2012年7月の記事を読む
2012年6月の記事を読む
2012年5月の記事を読む
2012年4月の記事を読む
2012年3月の記事を読む
2012年2月の記事を読む
2012年1月の記事を読む
2011年12月の記事を読む
2011年11月の記事を読む
2011年10月の記事を読む
2011年9月の記事を読む
2011年8月の記事を読む
2011年7月の記事を読む
2011年6月の記事を読む
2011年5月の記事を読む
2011年4月の記事を読む
2011年3月の記事を読む
2011年2月の記事を読む
2011年1月の記事を読む
2010年12月の記事を読む

ニュースヘッドライン記事詳細

2015年10月29日 前へ 前へ次へ 次へ

【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / 住友化学 米倉弘昌相談役 《下》

【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / 住友化学 米倉弘昌相談役 《下》

▼需要急減も建設を断行

 1979年2月のイラン革命を引き金に、第2次オイルショックが世界を襲った。「アジアの石油化学製品の需要予測は、市場調査したときの3分の1くらいまで減少してしまった。これは大変だと」。シンガポール石化プロジェクトの延期は当然との空気が流れた。ところが長谷川氏はプロジェクトの即時実行を命じた。「計画の延期を具申するため、技術や企画の担当が説得したが、頑として聞かない」。そこで部屋を訪ねた米倉氏に対し長谷川氏は「『今やった方が建設費も金利も安い。建設して1年止めておけ』と言われた。その話に皆、納得して建設に入った」。こうして83年初頭にはPCSのエチレン設備と一部の誘導品設備が完成した。「そして本当に1年間設備を止め、84年2月に商業運転を開始した」。

 その後、シンガポールの石化拠点はフル稼働を続け、予想を大きく上回る成功をもたらした。「アジア経済が発展するなかで、日本は85年のプラザ合意で円高が進み、アジアへの石化製品の輸出が厳しくなった。また、このころになると石油輸出国機構(OPEC)の力も弱くなり、市場が原油価格を決める時代となっていた」。シンガポール石化拠点に力強い追い風が吹いていた。

▼英蘭シェルの参画と設備拡張

 88年にシンガポール政府は国営企業の民営化に乗り出した。「当時、世界的に民営化がブームだった。それでPCSと誘導品企業の政府持ち分を英蘭シェルに売却すると言ってきた。約束が違うと抗議したが、結果的にシェルと当社は親密になり、お互いの経営手法を勉強し合う仲になった」。

 アジア経済の本格的な成長とシェルとの良好な関係をベースに、PCSは97年に第2期計画のエチレン工場を稼働させ、「1期と合わせた生産能力が年産100万トン域に達した」。2000年には米倉氏が社長に就任。付加価値の高い誘導品の拡充や、原料ソースの多様化などを次々に推進して収益力を高め、「中国市場にも販売ネットワークを広げた」。石化事業でグローバル化の王道を歩んだことが、サウジアラビアのラービグ計画という次なる大プロジェクトにつながっていく。

▼合併破談とラービグ計画の決断

 00年代に入り、シンガポールでは新たなエチレン設備を建設する第3期拡張計画の話が持ち上がっていた。一方でこの時期、住友化学は三井化学との合併を計画するも、03年3月に合併の白紙撤回を発表していた。そのころ「こういうプロジェクトに関心はないか? と投資会社から誘いがあった」。サウジアラビアの西海岸にあるラービグ製油所を活用した、サウジ国営石油会社サウジアラムコとの合弁による石油精製―石油化学の一大プロジェクトだ。「世界の石油化学企業から候補社をリストアップしてアラムコが調査・面談し、最終的に3社にショートリストされた。そのうちの1社が住友化学だった」。

 米倉氏が最初にラービグの地を訪問したときの感想は「これは大変なところだなと思った」。しかし「極めて競争力の高い原料エタン価格が魅力だった。ただ本当に安全なのか見極める必要があった」。

 米倉氏は、ナイミ石油鉱物資源大臣やアラムコのチーフネゴシエーターだったアルファリ氏らと直接対話することで、プロジェクトのリスクやアラムコの企業風土などを探った。「公平、公正であることが一番重要だと伝え、サウジ側も同じ考えだと分かった」。一方で、米英の調査会社にリスク調査を依頼した。「調査会社からは、海外での投資計画なのでリスクはゼロではない。しかし管理は可能だ」。さらに様々な角度から徹底的に検討を行い、腹を決め「アラムコとの交渉や社内での説得を開始した」。

 サウジ政府が最終的に住友化学をパートナーに選定したのは「技術力とアジア市場に強い販売ネットワークがあるため」だ。

 総事業費98億米ドルのラービグ計画は、05年に事業主体のペトロ・ラービグ社を設立し、世界最大級の石油精製―石油化学の製造拠点の建設に着手した。09年4月にはエチレン年産130万トンのエタンクラッカーが操業開始した。さらに、16年にはエタンクラッカーの増設や芳香族プラントの新設を実施する第2期が完工する予定だ。住友化学がこれまで推進してきた石油化学の壮大なグローバル展開の物語は、1つのピークを迎えようとしている。

 一方で15年5月に住友化学は千葉のエチレン設備を停止した。エチレンなどの基礎原料は丸善石油化学との合弁会社京葉エチレンからの受給に切り替えた。「千葉地区のエチレン設備の停止はまさに歴史的な転換点だ」。米国留学から帰国し、新設直後の雄姿を眩しく仰ぎ見たその設備が役割を終えた。

▼経営は武士道に通じる

 米倉氏は、住友化学の社長、会長として石油化学のグローバル化のほか、医薬事業や農薬事業におけるM&A、情報電子化学部門の育成など、積極果敢な経営を推進してきた。「経営は忍耐も必要だが、果敢に攻めるときは攻める。武士道に通ずるものがある」という。そのうえで、「化学産業は、情報通信技術(ICT)、ロボティックス、再生医療、省エネ・新エネ技術などに裾野が広がっており、光が当たる場所が増えていく。なかでも、日本の化学産業が一番ポテンシャルが高い。今後も成長が期待される分野に積極的に事業を展開していくことがとても重要だ。果敢に挑むことで、自社が本当に何が得意なのかも見えてくる」と後進にエールを送る。
 
(毎週、御一方ずつ掲載予定)


Copyright(c)2010 The Chemical Daily Co., Ltd.